2012.09.23
「心」の解明
私たちは、ふだんの何気ない日常会話のレベルから、哲学や宗教に至るまでのさまざまなレベルにおいて「心」という言葉を多用する。では、そのような「心」とは何だろうか。最近、科学雑誌の『ニュートン』5月号が「最先端の脳科学が、最大の問題に挑む」というキャッチフレーズで「脳と意識」をテーマに特集していた。中にいくつかの興味深いトピックがあったので、その一つを紹介旁々考えてみたい。
近年の脳科学(神経科学)の発達にはめざましいものがあり、脳神経細胞の活動は物理的、化学的変化として外部から把捉可能になってきているが、それでもなお人の「意識」がその脳神経細胞の活動からどのようにして生じるのかという問題はハード・プロブレム(難問)とされていて、この先も解明不可能かもしれないという。
現在では脳の神経細胞の活動が意識を生むということが一般常識のようになっているが、かつては脳という物質の他に思惟を本質とする精神を考え、心身二元論で人間の活動を理解しようとしたことがあった。デカルトがその嚆矢である。そのような論を実体二元論と呼ぶが、この論によれば人間の活動は、非物質的思惟実体が、物質である脳から情報を得て、脳に指令することによってなされるという。これだと「自由意志」は脳から独立した精神の活動だとして片付けられるが、しかし心身の相関ということについて、精神が脳に指令するという点や、エネルギー保存の法則に反するなど、現代科学から見て種々の点で説明がつかないことから、今日ではほとんど支持されていない。
たとえば、近年ではアメリカの神経科学者ベンジャミン・リベット博士が次のようなことを脳波測定による実験で確かめた。すなわち、人が指を動かすというような行動を起こす場合、まず動かそうと決心して、それから実際に指を動かすわけだが、ところが計測によると、指を動かそうと脳が決心を下した瞬間の時点より、脳が指を動かすための準備の信号を発生させた時点の方が約〇・三五秒早かったという。これは私たちの固定観念を覆す結果で、先に行動の準備活動があり、それからその行動の意志決定がなされるというのだから、普通に私たちが考えている順序の逆である。意識が行動や思考を支配しているのでなく、逆に現在の自身の行動や思考の状況が意識を規定していることになる。これは精神(意識)が脳に指令するという心身二元論の批判になっているし、また、人間の自由意志の存在を否定することにもなって、人間の倫理道徳の上で重要な結果をもたらすものである。
また、心の哲学、科学哲学を専門とするアメリカの哲学者ダニエル・デネット博士は、心身二元論批判の目的で、人の脳内に「小人」がいると想定し、その「小人」が外界をチェックして人それぞれの認識表象内容(クオリア、物を認識した時の「感じ」)を作り上げているという概念モデルを設定した。博士はそれを「デカルト劇場」と呼んで、極めて主観的な内容を持つクオリアのような概念を批判し、同時に心身二元論を否定した。
リベット博士の実験がもたらした、現在の自身の行動や思考の状況が意識を規定するという結果は、実は仏教からすれば、大乗仏教の唯識説において、無意識下の意識(アーラヤ識)が私たちの身口意の三業、すなわち、身体活動、言語活動、精神活動発現の根源になるという主張を科学的実験によって検証したものということができるだろう。
インドで四世紀ころに興った大乗仏教の主流学派の一つ唯識学派は、私たちの心の最も奥深い無意識下の意識を発見してこれをアーラヤ識と名づけた。このアーラヤ識の内実は、私たちの行為の結果生じた一つ一つのカルマン(これを種子と呼ぶ)の総体で、一瞬一瞬その内容を変えながら、しかも連続して存続して行く。この無意識下の意識であるアーラヤ識の中で種子が成熟し、それが表層意識となって行為がなされるというのだ。しかもこのアーラヤ識は個人の心身の行為の結果によってその内実が規定されているのであるから、表層意識より先に自身の心身の状況の結果があり、それが行為の意志決定をもたらすということになる。今から千六百年も前の仏教の理論を現代の科学が後追いしているということであって、大変興味深いことである。
住職 藤井 教公