現在の本堂は、関東大震災によってこれまでのお堂が焼失したのちに、昭和4年に再建されたものです。第二次大戦の東京空襲を奇跡的に免れて今日に至っています。当院安置の日蓮大聖人御尊像は、明治の開創以来、「願満日蓮大菩薩」「牢屋ヶ原のお祖師さま」として都民に親しまれてきました。もともと身延山久遠寺の宝蔵にあり、江戸出開帳の折りにたびたび身延から江戸に奉持された尊像でした。明治になって日蓮宗大教院が東京芝二本榎木に開設された折り、身延山より大教院に遷され、当院開創の折りに大教院より当院に安置されたものです。
このご尊像は昔から「願満祖師」という名が冠せられています。それは次のような言い伝えがあるからです。日蓮大聖人の最後の弟子、日像上人(1269-1342年)は、大聖人より遺言として法華の京都弘通を委託されましたが、まだ幼少であったために大聖人の六老僧の一人日朗(にちろう)上人のもとで研鑽を積み、二十五歳の時に鎌倉由比ヶ浜で寒中一百日の荒行を行って京都弘通の願の成就を祈願しました。翌年に京都弘通の旅に出発し、大変な苦労と二十八年の歳月をかけて、ついに朝廷より法華弘通の勅許を得ました。この大願が成就したあと、日像上人は目蓋に残る大聖人の面影を像に刻み、その完成後みずから「願満日蓮大菩薩」と名づけて身延山に奉安されました。そのご尊像が身延山の宝蔵に安置されていて、身延山から東京の大教院へ、そして当院へと安置されたその御像だと伝えられています。このご尊像は関東大震災、第二次大戦の戦火をくぐり抜けて当院本堂内陣に安置されています。
『法華経』従地涌出品に説かれる上行、無辺行、浄行、安立行の四菩薩の一人を象ったお像です。この四人の菩薩は娑婆世界における法華経弘通の任を担う菩薩たちで、日蓮大聖人はこのうちの上行菩薩の生まれ変わりという意識を持たれて法華弘通に生涯をかけられました。当院安置の浄行菩薩は恭敬合掌した石造りの立像で、まことに敬虔な御容姿です。この御像をたわしでごしごしと擦すると、自身の身心の垢れを洗い落とし、罪障消滅、当病平癒の御利益があるので参詣者が絶えません。
当院やお隣、それに十思公園一帯は江戸伝馬町の牢獄の跡地です。幕末、蛮社の獄では蘭学者高野長英が投獄され、安政の大獄では吉田松陰、橋本左内、頼三樹三郎らの志士が投獄され、命を落としました。それらの獄死亡霊を慰めるために建立されたのがこの供養塔です。御題目の文字は当院開山の文明院(新居)日薩上人の手になるものです。
昭和の名優長谷川一夫氏は京都伏見の出身で、そこには「油かけ町」という町があり、昔、油売り商人が道端の石像に間違って油をかけてしまったが、それ以来商売が大繁昌したという伝説がありました。長谷川しげ夫人は神仏に厚く帰依し、戦後間もなく、たまたまこの油かけ天神を夢に見て、天神様から東京に祀って大勢の人と結縁せしめよとのお告げを得たので、当時の身延別院の住職藤井日静上人に相談した結果、当院にお祀りすることになりました。商売繁盛、開運、安産に御利益があり、毎日お参りの人がひしゃくで油をかけてお祈りする姿をみることができます。
稲荷神のお使いがキツネ。全国に伏見稲荷から分祀され、勧請されています。所願成就、怨敵退散を祈ります。ご祭日は毎月二十二日です。
日本橋は鰻の蒲焼きの老舗有名店が数多くあります。それらの多くの店が集まって日本橋蒲焼商組合を形成しています。この組合は毎年6月初めに身延別院に集まって年に一度の放生会を行い、日頃商売でお世話になっている鰻の供養を行います。当院でお経を上げたあと、神田川で鰻を放ちます。戦後から長年に亘って続けているこの鰻供養のために、組合傘下の十八の店が協同して、昭和58年4月3日を期して当院境内の一角に供養塔を建立しました。放生会は中国天台宗の大成者、天台大師智顗(ちぎ)が放生池をもうけて魚類を放生したのが最初です。蒲焼きのメッカ、日本橋の地ならではの供養塔です。