身延別院縁起

 

 
img_history_01

伝馬町の牢屋跡

 徳川三百年に亘って小伝馬町牢屋として怖れられていた牢獄には、吉田松陰・橋本左内・頼三樹三郎のような幕末の志士もいれば、蛇蝎の如く人々から恐れられた盗賊や殺人鬼もおり、また後に浄瑠璃や歌舞伎の題材にもなった八百屋お七のような乙女もいた。その牢屋は明治になって取り壊されたが、その跡地は誰も住む人もなく放棄されていた。ここへ法華の道場を建立して大勢の亡霊たちを慰めようとした一団の人々が現れた。時の身延山久遠寺七十三世、新居日薩上人を中心に、深川本立院江川勝義、浅草玉泉寺鵜川日行、後に身延山八十世に就任した若き日の市川日調の三上人と、これを外護した強力な法華の信者、鈴木伊兵衛、沢田治助、藤懸与左衛門と新居日薩家一族の人々である。
明治14年5月5日、浅草蓮光寺に会合して牢屋跡敷地三百余坪を坪七円五十銭で購って堂宇を建立する決議がなされ、この人々が東奔西走して大いに浄財を募り、翌明治15年9月祖師堂が建立せられ、翌16年10月盛大な開堂式が行われた。この祖師堂建立事業の中心になった組織が清浄結社で、新居日薩上人がその普及拡大に努めたものであるが、僧俗一体となって同修同行の実を挙げる講社組織である。その第一結社がここ日本橋に生まれ、島根、福岡、新潟、千葉、長野等で盛んになり、やがて全国的に法華の団体ができたのである。(『新居日薩略伝』より)

 

願満高祖日蓮大菩薩御像

img_history_02 当山に安置される御像は、古来身延山久遠寺宝蔵に安置された「願満高祖日蓮大菩薩御像」と称せられた身延山秘蔵の御像であって、明治維新までの身延山出開帳の際に、お山から奉持された御像であることは身延山発行の『宝蔵安置・高祖大士略縁起』によって明らかである。
同書によると、龍華樹院日像上人は帝都弘通に奮励したが都を追われること三度、延慶3年(1310年)春3月、良材を得て手ずから祖師の尊像を彫刻し、この像に向って深く大願成就を祈念し奉り、宗祖五十回忌に当り、元弘元年9月、弟子妙文に命じて身延山に登山させ、尊像を奉納して大法会を修せしめた。日像上人、間もなく本懐成就して帝より四海唱導の勅許を得給うた。世に天聴の高祖又は願満の祖師と称し奉る所以である、と。『身延山史』も上記の事についてこのように記している。「日善上人在位僅かに三年、恰も元弘元年宗祖第五十遠忌に当るを以て、諸国より門下檀越の登山するもの甚だ多く、……洛の日像上人自刻の祖像を守護して延山に詣し、これを安置す、後世この尊像を<天聴の高祖><願満の祖師>と称するに至れり」(42頁)と。
当院のご尊像を「願満高祖日蓮大菩薩」「願満祖師」と称し奉る所以である。

 

祖師堂尊像安置

img_history_03 明治8年5月5日、東京芝二本榎宗教院を日蓮宗大教院と改め、その大講堂の本尊としてこの尊像が身延山から迎えられて安置された。越えて明治14年6月25日から五日間、尊像開扉、説教と宝物拝観が行われて賑わった。その時この日蓮宗大教院において盛大な宗祖第六百遠忌法要が奉行された。その翌年明治15年9月に当院、小伝馬町祖師堂に安置せられるに至ったのである。
関東大震災までの身延別院は、豊原國周筆の錦絵「村雲鬼子母神堂・願満祖師堂一覧之図」に「日本橋小伝馬町もと牢屋しきあとえ祖師堂および鬼子母神堂其外いと美麗なる堂宇を造築なし今は他に並びなき繁昌の霊地とはなれり」と右肩に白抜きで大書されてある。
願満祖師堂、すなわち後の身延別院は敷地約三百坪で、今の十思公園の東向きの正面に堂々たる構えの土蔵造りの祖師堂があった。絵によれば、門前には露天商が並んで名物の太白飴等が売られ、神田八講、両国東西講の幟と提灯が飾られ、現存の開山新居日薩上人の雄渾なる題目宝塔を見ることができる。
その手前に浄行堂が見えるが、この浄行菩薩像は現存する。
そのほかに絵馬堂と向かい合って説教所、寺務所が並列し、市川日調上人の言によれば、「完至れり、美尽くした堂宇のたたずまい」であったという。また、都下の耳目を集めて日々参詣人の跡絶えることなく、霊験いよいよ顕著にして、毎月一日、十三日はことに殷賑を極めたということであった。

 

関東大震災

 関東大震災(1923年9月1日)によって身延別院は倒壊焼失した。その時の被災の様子を先々代藤井日静上人(後の身延山八十六世)が発行していた教報誌『願満』から抜粋すれば、次の通りである。
「大正十二年九月一日十一時五十五分、大地一たび揺れるや、大火は忽ち東京の四方を包みて、都人の逃げまどふ阿鼻叫喚の声は、真に世の終りかと思はれた。当時の別当は山村貫立上人で、庶務の田中海珠師と急遽相談の結果、北村義暢、高橋栄澄の両帥並びに竹内弥太郎等と共に大伝馬町の問屋から荷車三台を借り受け、宝物並びに重要書類等を之れに積み、願満霊像は田中庶務背負って先づ当時の総代沢田治助宅、次に大本願人伊藤茂右衛門宅をそれぞれ訪問して霊像の安全避難方を依頼せしも、当時の情勢下では万全期し難く、やむなく浜町河岸まで来た処、恰も山村病院は大伝馬船に患者避難中に遭遇し一先づこの船中に安置することを得た。(患者は下流にて上陸せり)、処がこの上流で川に流れた油が忽ち火となり、多くの死傷者が出た。霊像の御衣袈裟の一部も焼けたが尊像は水にも漂はず、火にも焼けずに流れ流れて半月後には遠く船橋の沿岸に安着し、船中の過去帳を調べて初めて小伝馬町身延別院と判り、警察から通知があった。一方、竹内弥太郎等は涅槃画像等を荷って新大橋に避難した処、計らずも浜町清正公、水天宮神躰等期せずして同処に集まったといふ。(当時の体験者田中海珠上人談話による)」
当院の願満日蓮大聖人の尊像は、関東大震災の激烈な火災水災にも堪えた。その様は『妙法蓮華経』薬王品に「火不能燒。水不能漂」とあるが如くであった。これ、大聖人のなせる奇瑞であろう。
震災後は山村貫立上人の跡を受けて内房本成寺の志村要麟上人が別当に就任し、別院復興に鋭意尽力し、昭和4年9月14日、上棟式、同年10月12日に竣工した。

第二次大戦とその後

img_history_04 別当制から住職制に変わり、第二次世界大戦の戦火も激しさを増した昭和17年4月、初代住職として藤井日静上人が京都満願寺より身延別院に赴任した。日静上人の談によれば、戦争末期の昭和20年2月15日、雪の降る中に神田一円が空襲による大爆撃を受けた時、雨と降る焼夷弾の数個は別院の近くに落ち、その一個は危うく本堂の祖師御像の裏側におちたが、不思議にも自然に消えて事なきを得た。(後にその焼夷弾は現在の江戸博物館に寄贈)これ、霊像の加護の賜と一層有り難味を覚えるものである。
昭和34年4月、当院第二世藤井日光上人(後の身延山九十一世)が先代日静上人が身延山八十六世に晋董したため、京都満願寺から身延別院に赴任することになった。
昭和47年4月19日、この尊像は東京都重宝文化財の指定を受けた。これを記念して5月、須弥壇、宮殿の修復と金箔塗り替えなどを総代世話人に図り、檀信徒、身延中央講、大いに丹誠を凝らして同年11月13日、重宝文化財指定慶祝大会を修した。
当院創建より今日に至るまで、小伝馬町の一角で、伝馬町獄死亡霊を慰めるとともに、願満祖師として日々の参詣者の篤い信仰の対象となっている。

ページトップへ