2013.12.02
「神」と「仏」
今年は伊勢神宮の式年遷宮がおこなわれ、大勢の人がお伊勢参りをしたということである。筆者はお伊勢参りとはいかなかったが、八月末に松江市で学会が開かれたので、帰りのついでに、といっては神様に申し訳ないが、出雲大社へ寄ってきた。出雲大社は今年は六十年ごとの「平成の大遷宮」が行われたせいもあるのか、大変な賑わいだった。特に若い人達の姿が目に付いたのは、ここは縁結びの神様とされているからかもしれない。最近日本の若者達の宗教離れが著しいと聞いていたが、どういう形にせよ、昔からの信仰に触れることは良いことだ。
日本の宗教文化は主として仏教と神道の二つの宗教の習合によって形成されているといってよいだろう。日本への仏教伝来は六世紀半ばということだが、『日本書紀』には、外国の宗教である仏教を信仰すれば、従来の日本の神々の怒りに触れるだろうとして、排仏を唱えた物部氏と崇仏の蘇我氏とが対立したという記述がある。
しかし、聖徳太子の仏教受容政策の大きな功績があって仏教は日本に定着した。その定着の仕方、従来の神道との折り合いの付け方を概観してみると、これが大変興味深い。まず、奈良時代には、日本の神々は仏法の守護神であるという考え方と、もう一つ、日本の神々は仏教から見ると、まだ迷いの衆生の一員に過ぎず、仏教に帰依して成仏を目指すべきであるという考え方、この二つの考え方が同時に起きた。どちらの考えにも共通するのは、仏教が優位で神道がその下に従属するということである。これは誰が見ても仏教側が言い出したことと思いがちであるが、歴史学者によるとどうもそうばかりではなく、神道を信ずる人々にもそのような意思があったらしい。
ところが九世紀前半の平安時代になると、日本の神々は仏教の仏・菩薩が仮りの姿をとって現れたもの(権現)で、もとは仏や菩薩だという考え方、本地垂迹説が出て来た。この考え方では、仏・菩薩イコール日本の神々となって、ここで初めて仏教と神道の二者が同列の存在となったのだ。平安院政期ころには、天照太神以下、日本のほとんどの神々の本地(おおもと)が仏教の仏・菩薩に比定されたという。たとえば天照太神は大日如来、八幡神は阿弥陀如来というように。
このように時代を経るごとに異なった神仏習合の考え方が出てくると、前代の考え方は消滅して新しい考え方が取って替わったと考えるが自然だが、ところが日本の場合はそうではない。古い考え方もそのまま残り、それらが重層的に積み重なっているのである。これが日本の宗教思想の幅と層とを広く厚くしており、そのために宗教的寛容性という一つの特徴も、そのような広くて厚い層から醸し出されているのではなかろうか。
たとえば、十一世紀前半に天台宗の僧、鎮源(ちんげん)が著した『法華験記』には天王寺の別当、道命阿闍梨(どうみょうあじゃり)の霊験記が載っている。それによると、この阿闍梨は大変に声がよくてお経がうまく、その読経の声を聴く者はみな随喜讃歎したという。この読経の声を聞くべく、貴賤の別なく人々が参集したばかりか、吉野金峰山の蔵王権現、熊野権現、住吉大明神などの神々も集まった。そこで住吉明神が松尾明神にいうには、この阿闍梨は日本一の法華の持者である、このお経の声を聞くと、生々の業苦を離れて善根が増長する、だから夜ごと遠路を厭わずやって来るのだ、と言ったという。
住吉明神は和歌の神様として有名だが、その神様が「生々の業苦を離れる」というのは、これは奈良時代の、神は迷える衆生の一員であるという考え方によるものである。この『法華験記』が書かれた十一世紀には、すでに本地垂迹説が成立しており、神様の本地もすでに決まっていたはずであるが、この時代にも古い考え方がそのまま残されている。
住職 藤井 教公