傳馬町余話

 

 

2015.03.23
懺悔について

 「懺悔」と書いてサンゲと読む。最近ではザンゲと読む方が一般的であるが、これはキリスト教でいう、罪を告白し、悔い改めて神の赦しを請う行為をいうのであって、仏教では本来濁らないで、サンゲという。仏教辞典によれば、懺悔の語の由来について種々の議論があるが、肝腎な点は、仏教では懺悔のことを悔過(ケカ)とも言うように、自己の罪の赦しを他者に請うだけでなく、自己自身で罪の内容を明らかにし(説罪)、悔い改めるという点にあるとする。

 最近では、不祥事を起こした企業の幹部らが、記者会見を開いて陳謝し、それで社会的赦しを請うような光景をたびたび見受ける。しかしその謝罪の言葉も、通り一遍の型どおりに終始し、これこれこの点が悪かったと具体的に指摘してそのことを深く反省し、わびるというような事例には余りお目にかからない。

 仏教では、インドの初期仏教のころから、出家修行者の戒律が定められ、僧侶としての戒とサンガ(僧団)の生活の規則(律)の遵守が求められてきた。しかし、人間であるから戒律違反もする。それで、月に二度、サンガの成員が集まって布薩(ふさつ)という反省会を開催していた。戒律違反を他の修行者から指摘を受けたり、自身で告白して、その違反に相当する罪を受けるのである。また、夏安居(げあんご)の最後の日に、やはりサンガの全員が集まって、戒律違反の告白と反省を行っていた。

 このように仏教教団では、自身の犯した違反を告白し、それで相当の罪を宣告され、その罰則に従うことが求められたが、軽い罪などは単に後悔し、反省するだけで許された。このような戒律規定とその運用は、サンガの重要な行事として儀式化され、大乗仏教が興起しても継承されてきた。

 しかし、後に中国の南北朝時代、梁代六世紀半ば以降、懺悔の儀式が懺法(せんぼう)と称されて盛んに行われるようになった。中国天台宗では『法華経』に依ったので法華懺法が成立し、これは日本天台宗に受け継がれ、今に至っている。

 懺法が中国で盛んになり、我が国でも平安朝時代以降に流行したのは、懺悔すれば罪は消える、いわば過失がそこでリセットされるので、懺悔滅罪がクローズアップされたのであろう。東アジアの現実肯定的な、またオプティミスティックな思惟傾向のせいかもしれないが、しかし我々はそこで大いに救われているのである。

 仏教は一神教ではなく絶対神を立てない。仏陀はユダヤ、キリスト、イスラムの各教におけるような神ではない。もともと我々と同じ人間が修行解脱の結果、仏という存在になったのである。だから神と人間の間にあるような断絶はない。ここにキリスト教における懺悔(ザンゲ)と仏教の懺悔(サンゲ)との違いがある。前者は罪を犯すことは神に対して離反したことになり、神の慈悲によって赦される。しかし、仏教の罪の意識は神に対するものではない。その赦しも仏教教団全体に対して請い、罰則規定が終わればそれで赦される。仏教は一神教に比して色々な面において寛容で、包容力があると言われるが、罪とその赦しについてもそのことが言えるであろう。

 ところで、我々にとって問題なのは、その人が犯した罪が重いものであればあるほど、その罪を他者に対して告白し、懺悔するということが難しいということだ。キリスト教の教会では直接には司祭に告白することになるのだが、事情は同じであろう。

 以前、クリント・イーストウッド主演の「グラン・トリノ」という映画を見た。その中で主人公は「教会へ行って懺悔告白してほしい」という妻の遺言も日頃は一切実行しなかったが、最後の最後、主人公が少年のために犠牲的死を決意した後に、初めて教会へ行って懺悔したというシーンがあった。考えさせられることである。

住職 藤井 教公
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