傳馬町余話

 

 

2015.12.28
「自己犠牲」について

 最近、欧米でイスラム過激派によるテロ事件が頻発している。シリアやイラクなどでも自爆テロが日常的に報道されている。それらのニュースで悲惨なのは自爆テロの実行者が少年であったり、若い女性であったりする時だ。彼らはテロで短い一生を終えるが、同時に全く関係のない多くの無辜の市民の命を奪うことに何の抵抗も感じないのだろうか。

 中世、十字軍の遠征時代、シリア地方に実在したとされる暗殺教団(イスラム教シーア派の一分派という)は、山岳地帯に「秘密の園」を設け、そこへ若者を拉致してきて、美女やハッシッシなどの麻薬を与えてこの世の天国を味わわせ、再びこの快楽を得たいならば、命ずる指令を実行せよ、として暗殺者に仕立て上げたという。アサシン(暗殺者)という語の起源も、大麻のアラビア語「ハシーシュ」に因むのだという。

 自爆テロは自己犠牲をともなう行為だが、他者の命を奪うということでは殺人者で、しかも大量殺戮者である。けれども、テロ実行者はそのことに思いが至らない。自身の死によって自分は天国に、家族や同朋は地上で幸福を得ると洗脳されるのであろう。そうしてみると、彼らも道具として操られ、利用されるだけの哀れな犠牲者の一人である。最も悪辣なのは、テロリストを養成し、それを自分たちの意のままに道具として使う指導者たちである。自分は安全な場所にいて実行命令を下すだけで、何の身体的犧牲も払わない。そのような彼らは最も卑怯だ。

 仏教では戒律の中に不殺生戒がある。生き物を殺してはならないという戒めである。旧約聖書にあるモーゼの十戒の「汝、殺すなかれ」は人間についての戒めであるが、仏教の場合は人間は勿論、広く虫や鳥獣も含む。元来の仏教僧団は戒律で田畑を耕作することが禁じられていたのも、土を掘り返すと土中の小さな虫たちの命を奪い、不殺生戒に抵触するからだという理由であった。

 しかし、また仏教には布施行として自己犠牲ともいうべき「捨身行」あるいは「捨身供養」が説かれている。たとえば、法隆寺の玉虫厨子の内側に描かれている有名な「捨身飼虎」譚は、菩薩が飢えた虎に我が身を与える話だし、『法華経』には我が身を焼いて仏に供養する燒身供養が説かれている。

 『法華経』の薬王菩薩本事品第二十三には、薬王菩薩の過去世物語が記されているが、そのなかで薬王菩薩の前身である一切衆生憙見菩薩は、日月浄明徳仏から『法華経』説法を聞き、その教えにしたがって精進した結果、現一切色身三昧という三昧を体得した。そこで一切衆生憙見菩薩は日月浄明徳仏と『法華経』に対して供養せんと思い、種々の供養をした後に、とうとう自身の身体を捧げようとして、さまざまな香を服し、香油を塗って自身の身体に火をつけて焼身供養したとある。

 かの菩薩は再び同じ日月浄明徳仏の時代に生まれ変わり、仏に仕えたが、日月浄明徳仏の入滅後に仏舎利塔を建て、その舎利供養に自身の両腕を焼いて供養した。その樣子を見ていた声聞の弟子達は皆、無上菩提に対する心を起こし、現一切色身三昧を得た。そこで一切衆生憙見菩薩は、「自分は両腕を焼いたが、必ずや仏の金色の身体を得るであろう。もしこのことが真実らば、我が両腕が元通りになりますように」という誓願を立てた。すると、その両腕が元通りになったという。

 ベトナム戦争当時のベトナム僧、また現今のチベット僧侶の焼身自殺はこの『法華経』の薬王菩薩の過去世物語の焼身供養に由来するのだろうが、いずれも戦争や弾圧、それを惹起している政府への抗議の意味である。その人たちが心底から希求したのは、国や民族の平和であった。誰をも殺傷することなく自分一人が犠牲になることによって、皆に幸福になるようにとの、止むに止まれぬ気持ちから出たものであったろう。そこが自爆テロとの大きな違いである。

住職 藤井 教公
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