傳馬町余話

 

 

2014.12.29
聖徳太子と仏教

 先ごろ、筆者が奉職している大学の公開講演会で「聖徳太子と仏教」という演題で講演をした。地味な題だったので、人出は少ないだろうと思っていたら、案に相違して大勢の人が聴きに来て下さった。中には事前に質問状を用意して質問された方もおられた。このことから、日本では聖徳太子はいまだに人々に尊崇されているのだなと実感した。

 聖徳太子(五七四‐六二二)は日本の仏教にとっては大恩人である。それは太子が叔母に当たる推古天皇の摂政として、いよいよ日本国を一つにまとめ、統一国家を樹立しようとした時に、仏教をその理念の柱として採用したからである。

 『日本書紀』によれば、太子二十一歳、摂政に就任した翌年、推古二年(五九四)の二月、天皇が皇太子及び大臣に「三宝興隆の詔」を下したとあるが、これは太子の進言によるもので、三宝、すなわち仏法僧の興隆を推古天皇即位の翌年に早くも命じたものである。

 それから十年後、推古十二年(六○四)四月、太子三十一歳の時、有名な「憲法十七条」を制定したという。この憲法は今日の憲法とは大分違って、役人向けの精神的訓話のようなものだが、中味を見ると、儒教の要素も多いが仏教精神に由る条文が特徴的だ。その第一条を見ると、
 「和を以て貴しと為し、忤(さから)ふこと無きを宗と為せ。人、皆党(たむろ)有り。亦た達(さと)れる者少し。…(以下略)」
とある。「和」は仏教で重んじられる精神である。仏教の僧団を和合僧といい、その和合を破る者は、教団の最も重い罰則の波羅夷(はらい)罪に処せられる。太子はこの仏教僧団の和合の精神を憲法の第一条に据えて、群臣百僚の心得としたのである。

 続いて第二条には、
 「篤く三寶を敬へ。三寶とは仏法僧なり。則ち四生の終帰にして、万国の極宗なり。何(いず)れの世、何れの人か、是の法を貴ぶを非とせんや。人は尤も悪なるもの鮮(すく)なければ、能く教ふれば之に従はん。其れ三寶に帰せずんば、何を以てか枉(まが)れるを直くせん」とある。仏法僧を敬え、とあって、仏教尊崇の精神を鼓吹している。三宝はあらゆる人々の目指す究極で、心をそれによって真っ直ぐにするのだと。

 さらに第十条を挙げよう。
 「忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふを怒らざれ。人、皆心有り。心各執(と)る有り。彼是(ぜ)なれば則ち我は非なり。我是なれば則ち彼は非なり。我、必ず聖に非ず、共に是れ凡夫なるのみ。…(以下略)」

 この条文では、自分の意見と合わない人に怒ってはならない、人は皆それぞれ考えるところがあり、皆意見が違うものだ、自分が偉いとは限らない、皆凡夫なのだから、とある。極めて分かりやすい、現代でも通じる内容だ。最も感心するのは「共にこれ凡夫なるのみ」としている点である。古代の、これから中央集権国家を整えようとしている体制の中で最も重んじられるべきは権威と秩序である。儒教も身分と秩序の遵守を強調する。そこへ、「みな同じような凡夫なのだから」というのは、現代の平等社会ならいざ知らず、古代社会の為政者の言葉とは到底信じられない。仏教の、それも大乗仏教の、ともにみな仏を目指す菩薩の精神の発露であろう。

 鎌倉時代の凝然(ぎょうねん)や叡尊、忍性(にんしょう)などの旧仏教の師たちはもちろんのこと、新仏教の祖師達、道元や親鸞、日蓮聖人も、聖徳太子を日本国の仏教の恩人と讃仰して止まなかった。蓮祖大師も伝によれば、建長二年(一二五○)ころ、磯長廟に七日間参籠したという。私たちにとっても太子は忘れてはならない人であろう。

住職 藤井 教公
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