傳馬町余話

 

 

2016.09.21
福慧の二修

 『法華経』の方便品に「見六道衆生 貧窮(びんぐ)無福慧」(六道の衆生を見るに、貧窮にして福慧無し)とある。仏が六道輪廻する人々のありさまを述べた言葉である。この後に「入生死険道 相続苦不断」(生死の険(けわ)しき道に入って、相続して苦、断たえず)と続く。

 前の句の「福慧無し」の福慧とは、福徳と智慧のことをいう。大乗仏教では、この二つは、悟りに到達するための必須の要件で、どちらが欠けても仏になることはできないとされている。

 智慧は真理を見極める智慧のことで、これは仏教の早い時代からシステマティックで具体的な方法が考案され、修行者はこの修行法にしたがって、身心を整え、精神集中による瞑想や観想によって段階的に煩悩を滅して、論理的な智慧(観慧)を磨いていく。

 一方、福徳とはなにか。これは決して財産や地位などをいうのではない。人の喜びを自分の喜びとし、人の悲しみを自分の悲しみとする人、そういう人が持つ心の豊かさと優しさを福徳という。この福徳は生まれつきの性質ではない。努力して修行することによって積み重ねることが可能である。それならば、どのような修行によるのだろうか。

実はこの福徳を積み重ねる修行は自分一人だけではできない。大勢の人との結びつき、すなわち「縁」が必要になる。というのも、福徳は他人への働きかけの修行によってのみ積むことができるものだからだ。だから、他人との関わり合いが必須となる。

 困っている人を物質的に、あるいは精神的に助ける、ちょうど宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に出てくる「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲の束ヲ負ヒ」のような行い、このような行いが福徳を増すのである。その意味ではボランティア活動も大勢の人を助ける善行といえる。

 大乗仏教では、自己の修行のみを行う伝統的な修行者の悟りは不完全で、自分を高める修行と同時に他者救済の働きかけを行う大乗の菩薩が完全円満な悟りに到達できるのだという。それは他者救済の修行が福徳を増して、福徳と智慧の二つが揃うからである。自分一人のための修行だけでは智慧は磨けても、福徳を増すことができない。

 聖徳太子は三経義疏を撰述したとされているが、その中の一つ、『法華経』の注釈書である『法華義疏』には、大乗仏教の精神をよく表している太子の言葉がある。それは安楽行品(あんらくぎょうほん)第十四の中で、『法華経』の経文自体は「常好坐禪。在於閑處。修攝其心」(常に坐禅を好んで、閑(しず)かなる処にあって、其の心を修摂(しゅしょう)せよ)とある。つまり、静かな場所で坐禅して心を落ち着けよ、というのであるが、ところが太子はこの経文に対して真反対の解釈を下している。それは、心が顛倒(てんどう)しているからこそ、山間で常に坐禅をするというようなことをするのであって、それならば、この『法華経』を世に広める暇なぞないではないか、だから経に、常に坐禅を好むとあるが、それは反対の意味でなくてはならない
という大胆な解釈である。もちろん『法華経』は、人々への働きかけ、特に『法華経』の弘通(ぐづう)を強調しているのは周知のことであるが、ここは太子の他者救済の精神の発露が際だっているところである。『法華経』の弘通によって、人々は成仏の直道に触れ、みな菩薩としての確信を得るからである。

 大聖人は建治三年(一二七七)九月十一日に四条左衛門尉に宛てられた『崇峻天皇御書』の中で「蔵の財(たから)よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。」と述べられている。この「心の財」がまさに福徳に相当する。我々は大聖人のご文章のごとく、「心の財」を大事にし、大勢の人々に接することによって、それを増していく努力をしなければならない。

住職 藤井教公
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